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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

講義さまざま ライブ性

赤尾教員の4月15日「自主的に勉強すること 」で、「衝撃的だった授業」として以下が紹介されています。

最初の授業時に教員から「読むべき図書のリスト」と「課題(複数から択一)」が示されます。「各自,自由に本を読んで勉強するように。この時間は私は確実に研究室にいるから,質問に来るように。以上」。

コメントにも書きましたが、これは「大学らしい」と言いたくなる、ある方向に向けてエッセンスだけをきっちりと押さえたすごい授業だと思います。
大学が自主的に学問的な知への知的好奇心に駆り立てられたひとの集まりだとしたら、そして知の本質は「本」(いまならネットその他の公開された表現媒体を含む)に集約されるとするなら、この授業はまさに究極です。

ただ、講義の一回性、ライブ性にも私は価値を感じることがあります。たとえば、学生時代に武者修行的に潜って受けたバークレイの授業では、学生と教員のフランクな相互的なやりとりのなかで、知が生き生きと伝えられていく気がしました。そこには、やはりそれなりの強い憧れを感じました。こういうスタイルの授業は、別にバークレイに限ったものでは全然ありませんが、「ふーん」と印象的ではあったわけです。

もしも、大学で創造されたり伝えられるべき「知」が、必ずしも表現され得るものに尽きるのではないとしたら、たとえば何か暗黙知的なものや態度のようなものを含むとしたら、対面の相互的なやりとりでしか成立しない授業というアプローチは、これはこれで上の授業のカバーできない領域をカバーしようとしているのかもしれません。
表現によって表現できないものを伝えることができるかどうかは、面白いテーマですので、考えてみて下さい。

また、私としては、講義室でのどこかぼそぼそした対面授業にもそれなりの思い出があります。これは、よくある授業スタイルですが、このスタイルでなければ、という面がないわけでもないと思うのです。
たとえば、世界で唯一の(最新の? 革命的な?)知がまさに授業の場で、紹介される、あるいは生み出される(かもしれない)という緊張感は、このスタイルが一番であると思われます。じっさいには、なかなかそのような場面に、そしてとりたてて注目すべき瞬間に出くわすことは少ないかもしれません。ただ、その「かもしれない」という緊張感を教員と学生が共有できるのなら、まさに「大学らしい」と言えるでしょう。

このような緊張感溢れる場は、本を読んでおけという静的なスタイル(質問タイムを最大限に生かせばこれほどダイナミックな機会はないでしょうが)や、ラフな会話によるフランクな授業スタイルでは、得難いもののように思います。

私がその思想を研究していたウィトゲンシュタインという哲学者は、ケンブリッジでまさにそうした授業を提供していたそうです。まあ伝説なのですが、以下の本はその伝説を体験した著者による報告です。ウィトゲンシュタインの思想・哲学自体はたいへんに難解な面がありますが、この本ではウィトゲンシュタインの学問や人生への態度が、生き生きと語られており、彼の思想にいわば「外から」アプローチ
できますので、薦めておきます。

『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出』 (平凡社ライブラリー)ノーマン・マルコム (著)、板坂 元 (翻訳)、¥882