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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

web3.0ってわけではないが、、

『グーグル・アマゾン化する社会』(森健著、光文社新書)を読んで考えたことを書き留めておこう。この本は、同様にグーグル、アマゾンを例にとってweb2.0といった新しい情報社会像を説明した梅田の『web進化論』(ちくま新書?)と合わせて読むのが面白いだろう。

梅田は、「ロングテール」というコンセプトで、webにおいては従来の仕組みでは黙殺されていたニッチなニーズや意見が日の目を見る可能性があるといった比較的楽天的な観点を提示していた。これに対して森は、web2.0が成熟するにつれて、資本とテクノロジーとネームバリューで優るトップによって、ヘッドからテールの部分までの全体が支配される一極集中が起こりつつあるという警告を提起している。

おそらくこの議論の帰結は今後のweb自体が決めることであり、それは私の立場では、自律的な自然現象ではなく、社会が決定することである。私が森の議論に共感したのは、最近、webから得られる情報が偏りがちだという指摘とそのメカニズムの指摘である。森が言うには、webの情報が膨大になるにつれ、情報をピックアップするテクノロジーが重要になり、ヤフーやアマゾンのトップページにしても、グーグル等の検索結果画面にしても、ユーザーに合わせたカスタマイズの度合いが増大しつつある。そして、簡単に言えば、ユーザーの(潜在的に)望む情報ばかりが提示されるようになってきている。つまり、テクノロジーがユーザーの「空気を読む」ようになり、「快適な」情報空間を提供してくれるようになりつつあるわけだ。そして、そうした空気に慣れ親しんで我々は、ますますどうしようもなく偏狭で、部族的なマインドになっていく、というわけだ。

こうした指摘は、私自身についても、最近ふと気になったことだ。私は、ふだんヤフーのニュースサイトを利用しているが、いくつかのトピックスについては特に目を通すようにカスタマイズしている。また、全体を知りたいと思って、2,3の新聞社のサイトのトップ記事も表示させる。だが、これではいくつかのメジャーなニュースと、個人的に網を張っている特殊なポイントの話題にしかアクセスできていないことは明らかだ。それに気がついたのは、最近、自宅でも新聞を取りはじめ、学校で一紙ぷらす自宅で別の一紙に目を通すようになってからだ。新聞は、一応は最初から最後までざっと目を通すのが私の読み方だ。最低限、広く浅くであっても、全紙面を目で走り抜ける。これで二紙に目を通すと、ネットでは得られなかった社会の側面がけっこう目を引いたりする。

ネットのニュースサイトでは、まあ予期できる話題について、例えばイエスかノーかといった結果が分かるようなことが多い。メジャーな出来事であれば、それなりの事実関係はネットで把握できるし、それについての詳細や分析は、リンクをたどってわりと手に入る。これはネットニュースのメリット。だが、ちょっと前の事件だとか、やや小さめで予期もしていなかったが潜在的には注目したかった記事などは、新聞でないとなかなか目にとまらないのだ。新聞には、個人的には興味のない話題も満載で、この意味ではまことに無駄が多いのだが、しかしネットニュースにはない驚きと発見がある。最近は、携帯電話や携帯ゲーム機などの端末で、ニュースが文字でも動画でも受信できるようになっている。だが、新聞紙のニュースの持つ驚きと発見を実現するのはまだまだ難しそうだ。

もっとも新聞であっても、どの新聞を購読するかで大きくカスタマイズしているのと同様だ。ネットニュースはその弱点をうまく補うはずだったのだが、結局同じ問題がさらに強く、すなわち個人による情報のタコツボ化が生じてしまっているのかもしれない。

新聞と同じくプッシュ型のテレビニュースでも、新聞情報のような驚きはない。テレビは、メジャーなニュースか、あるいはめちゃめちゃどうでもよい息抜き話題だけだ。理由は明白だと思うので読者の想像にお任せする。ただ、最近は画面分割で複数のチャンネルを同時に表示できるようだが、聖徳太子みたいに、それらを同時に俯瞰できたら、事情は変わってくるのかもしれない。

現在のところ新聞紙が優位であるオモシロサは、たとえ編集が入って調整されているとはいえ話題の多様性が、紙面の大きさ、見出しの工夫、記事の選択や配置などの相当の工夫によって、うまく提出されていることにあるだろう。Web1.0を発信者本意の情報提示、web2.0を受信者本意の情報提示として把握するなら、どちらにも「つまらない」という問題があった。従って、私が次のフェーズに求めるのは、効率よくさくさくと情報の森を進みつつも、思わぬ景色や思わぬ小川に驚いたりする、そういった冒険を楽しませてくれる世界だ。

と、無責任に言ってる。