blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

創造的な講義のために

学生が、講義中に意見や質問を求めても、なかなか質問や意見を出さない気がする。
話す方はまるで壁に向かって話しているような感じだ。
なんだか退屈なわりに疲れるし、知的な側面において、いいことなしだ。

もちろん、教員の中にある特定の知識を学生の頭の中にコピーするためだけの授業なら問題はない。
世の中にコピー機や書物自体が貴重だったときには、そうした講義形式も一定の合理性があっただろう。
ひとりの教員が一気に大勢の学生に対して知識を伝えるには、個別に場を設けるよりは一つの場に集まってもらって、一気に伝えた方が効率的だ。
だが、そうした授業はクリエイティブとは言えない。
そういう授業なら、教員が教科書や授業資料を書いておくか、あるいはそういう教材を選んでおいて、それを各自で読むように指示して、あとでテスト等でその知識をうまくコピーできたかチェックすればよい。出席の必要は感じない。
情報化によって、今やそういう体勢を組むことは特に難しいことではない。

私が授業を楽しめるのは、自分が学生であれ、教員であれ、その授業が知的にクリエイティブな一回的な場である限りにおいてである。
少なくとも大学の授業は一期一会でありたい。

一般的に、ひとの話を聞いて、その話題に対してさらに発展させたり深掘りしたり、あるいは異なる視点から光を当ててみたり、そういった知的な反応ができないなら、その場にいても、ただ相手の話から何かを持って行くというだけでは、知的な場を共有する相手としては、あまりにも失礼で不当ではないだろうか。
ひとしきり話を聞いて、反応を求められても、いつも何も反応しないなら、その人とまた話したいと思うだろうか。
それはまともなコミュニケーション、対人関係なのだろうか?

私の講義がそうした不自然で不当な関係の場となってしまっている気がする。
日本では、指導要領と受験勉強、教員制度という縛りをかけられた日本式の独特の義務教育が延々と続くことによって、多くの講義がこうした不気味な状況となっていて、多くの学生と教員がこうした状況をなすすべなく甘受しているのではないか。
大学でも、多くの場合、学生は単位の為に授業に出る。

だが、授業が知的に創造的な場であり、学生がそうしたテーマを、授業ないしカリキュラムの選択という形で選択したならば、学生を単位で評価する必要などあるのだろうか。
学生にとっての成果は、授業に多少なりとも成果があったのなら、学生自身が分かっているはずだ。
それ以上のことは本来不要なはずだ。
学生を選別するために、そして、学生が授業に出ざるを得ないゲームを設定するために単位が機能し始める。
そんな授業は創造的ではあり得ない。

知的に創造的な授業を考えるなら、単位によって学生をその授業に関して評価・管理するということは、本質的には間違っているのではないか。
授業は、ただ知識を伝授するのではなく、そこで新しい知識にチャレンジするような創造的な場であるべきだ。
従って、学生と教員はそうした場に適した態度で授業に対するべきだ。

教員は、授業のために毎回緊張感を持って望むべきだし、学生は同じ緊張感を持って教員を迎え撃つべきだ。
教員は学生に授業への参加の機会を開くべきだし、学生の方は何か聞かれたら応えるべきだ。
応える意思がないとか能力がないことは、授業という知的な場にいること自体が本質的には文字通り場違いでおかしいことだと思う。

私の授業では、私は毎回創造的な場をアレンジすべく、材料を用意し、自分なりに目玉となる新しい知的なアイデアを持って授業に望もう。
他方、学生には明確な参加する意思を求めよう。
授業の合間にコメントを求めても、まったく反応のない授業はそこでおしまいにしよう。
聞かれても応えない学生は、その場で退出してもらおう。
これは作業的・手続き的な場ではない。
はるかに緊張を要する知的で創造的な場である。

そう考えたい。
単位はどうしよう? 
文科省は「単位」の実質化を要求しているということだが、その意義は明確なのだろうか。
もちろん、「単位」制度には一定の効果があるとして、必要悪ないし副作用として許容するということも考えられる。
だが、私は今まであまりにも一律で無反省に「単位」という制度を受け入れてきた。

授業とは知的に創造的な場であるべきだ。
これは理念だ。
こうした理念を実現することは簡単ではないが、理念を忘れたら授業の存在意義も失われる。
理念とは、それを目指して実践されるべき目標だ。
現実的にどのような授業が可能で、そして私と受講生、さらには大学全体、日本社会にとって有効なのか、教員として検討してみたい。