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【哲学2011】 『バーバー吉野』2 「伝統は伝説になる」

子供たちは、秘密基地、登下校中に、おおいに大人の目の届かないところで自由に遊び、考え、作戦を練っている。

こういう彼らは、現代の日本社会において、もっとも自由な子供たちであると言ってよいだろう。
さらに、学校でも家でも、先生や親の目はあるものの、最低限のモラルや規則を除いて、時間や人間関係などの細かいところはかなり任されているようすだ。
さらに町には、子供たちの反抗をとがめないはみだし者の大人たちがじつはけっこういて、ポイントポイントで子供たちの心を支える。

町は、単純に抑圧的に描かれているのではない。
だとしたら、この作品はいったい何を描きたかったのだろう。

町における環境管理型権力、主体形成権力の存在は否定できない。
だが、定番の権力闘争の物語りから一歩進んで分析してみよう。

我々町の外の社会は、じつは「カッコイイ」髪型にあこがれる主体として形成され、そうした髪型を一つのプレイとするようなゲームを生きている。
町の子供たちが自由とあこがれる我々の社会は、じつは主体形成権力や環境管理型権力によってたくみに社会構成された社会だ。
町の子供たちは、「吉野ガリ」に反対することでむしろ、そうした弱肉強食の厳しい社会に直接にさらされる。
その社会は、例えば、ひとを平気でクビにしたり切り捨てたり、序列化しようとしたり、商品化したりする社会だ。
作品中、失業するお父さん、男に捨てられるお姉さん、馬鹿にする大きな町の子供たち、ポルノ雑誌などがそれを象徴している。
町は、天狗ではなくじつは、そうした暴力的な社会から、子供を護っていたのだ。

子供たちは物語の中でそのことにしだいに気づく。
「カッコよくなりたい」と思って活動するうちに、吉野のおばちゃんや先生、町の大人たちの愛情を少しずつ自覚していく。
権力だと感じられたものがじつは愛情でもあったことに気づき、外の社会がより過酷な暴力的な権力に満ちたものであることが自覚されていく。
その上でなお、子供たちは「自由」を求めて外の社会と向かい合って生きていこうとする。

それが「大人になる」ということだろうか。
子供たちは愛情を振り切って自由の代償として権力の満ちた過酷な社会を選び、「大人」になっていく。
「親の生暖かい愛情を振り切って過酷な自由を求める」とするなら、これもまた定番解釈だ。
だが、「過酷な自由」はほんとうの自由ななおだろうか?
この作品の立場からするなら、「町には権力が満ちていてダサい、外の社会は自由でカッコイイ」という思い自体が、最終的な立場からすると、子供たち自身の子供らしい思い込みであろう。

「髪型にこだわる」「外見ばかり気にする」こと自体が、子供であることだとお父さんは息子に説く。
そして、お父さんは息子に、「吉野のおばちゃん」ことお母さんは「えらい」と説く。
そしてお父さんは町で働くことになる。

これは、どういうことだろうか。
町の外に憧れるのは「外見」にばかり目がいく子供で、ほんとうの大人は町に残るのが妥当な判断ということだろうか。
すると、子供たちは転校生の「カッコイイ」外見に惑わされて、見当違いな行動をとったということに過ぎないのだろうか?

それではあまりに悲しい物語だし、あまり実りがない結末だ。
おそらくこう解釈するのが面白いだろう。

たしかに子供たちは、「町の権力」から「自由」になろうとして、じつは、より過酷な権力の中に自らを投げ入れようとした。
これは、子供たちの成長の意思によってなされたことだ。

そして、おそらく、これによってはじめて子供たちは成長し、気づいていく可能性が生まれた。
町が全体としてそうした権力に対する強い耐性を持っていたことを。

こうした気づきこそが大きな意味を持つのだ。
自分たちが自由を求めていること、自由が町の大人たちによって護られていたことに気づくことに、大きな意味があるのだ。
なぜなら、こうした気づきを前提としてはじめて、子供たちが以前よりも自覚的に町に戻って町の自由を護る存在となる可能性がでてくるのだから。
あるいは町の外に出たとしても、どこかで権力に抗して町で満喫していた自由を確保しようとするかもしれないのだから。

このいみで、「伝統」としての形は破壊されたが、これによってそれを「伝説」として尊重するような自由で不屈な、責任感のある精神が子供たちに生まれたと言えるのではないか。

私としてはこの『バーバー吉野』をこうした作品として評価するのが面白いように思える。
バーバー吉野』というタイトルからすると、そうした子供たちの成長というよりもむしろ、そうした成長を受け入れる町の人びと、とくに吉野のおばちゃんの、こうした自由にとって好ましい変化を受容し育てていく柔軟性こそ、監督の描きたかったことなのかもしれない。