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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

【哲学2011】 『バーバー吉野』1 「町の抑圧的権力を打倒?」

哲学の授業で、標題の『バーバー吉野』(監督:荻上直子)を鑑賞した。

男の子が皆同じ髪型(吉野ガリ)を強制されている小さな奇妙な町の物語である。
これについて、授業で論じてきた「主体形成権力」「環境管理型権力」「自由」「メディア」「社会構成」などのキーワードを用いて分析せよという課題を出した。
授業で紹介した理論をつかって具体的シーンを解説してみるという課題である。

レポートの多くは、上記のキーワードを用いて、以下のような分析をするものが多かった(1,2が多く、4は以外に少なかった)。

1:町では、学校(教師)や「吉野のおばちゃん」を中心として子供がそうした髪型の強制を不思議に思わないように形成する主体形成権力が働いている。
2:町では、髪形について自然に吉野ガリにならざるを得ない文化状況が大人たちのふるう環境管理型権力によって意図的に作られていた。
3:町(の子供たち)はメディア的に孤立しており、だから町の有力メディアである町内放送の影響を強く受けて、文化が形成されていた。
4:町では、同じ髪型をするものとして「男の子」という概念が社会構成されていた。

その上で、下記のように評価するものが多かった。
5:髪型は本来自由なのに、町ではこうした自由が抑圧されていた。
6:町だけでなく、我々の社会でもこうした権力支配が指摘できる。

以上の、オーソドックスな分析は課題に対する回答としては一応評価できる。
ただ、作品の読みとしては、ちょっとつまらなすぎないか?
「大人たちの権力に抑圧されていた子供たちが、ふとしたきっかけでそれに気づき、自由に目覚めて立ち上がり、権力に打ち勝って自由を獲得する」
別に悪くはないが、それだけではあまりにも定番すぎる。
それらしいキーワードまで出しておいて申し訳ないが、もう一歩踏み込んでみよう。

慎重に考えるなら、上の解釈のほころびをいくつか指摘できる。
たとえば、町や町の大人たちは、この物語中でそんなにも否定的には語られていない。
いやむしろ好意的といってもいい描かれ方だ。
また、子供たちは吉野ガリでも十分楽しそうに自由を謳歌しているように描かれている。
秘密基地、登下校の不穏な作戦会議があり、学校でも家庭でもけっこうルーズで自由そうだ。
大人の視線は、秘密基地、田んぼ、トイレ、神社、自室、家出、などなど、そこここでさえぎられ、子供たちの自由な空間・時間がある。
むしろ大人の方が子供たちの視線にさらされている。
吉野理容店など、ガラス張りで外から丸見えだし、お父さんも隠れているところを子供に発見される。
パノプティコンの原則では、監視社会なら、監視者は影から一挙一動を監視し、不穏な言動、規格を外れた言動にはチェックが入るはずだ。
管理社会なら、そもそもそうした言動が不可能な状態が形成されているべきだ。

それはどうしてだろうか? 次号へ続く。