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「アイスバケツチャレンジ」の社会的意味論 (論争への批判的観点)

参加する側、拒否する側の双方の議論に懸念を感じたので、このブログはあまり時事問題は扱わないが、私の研究からひとこと記しておく。
ある観点から、参加する側の議論にも、拒否する側の議論にも、一定の慎重さと配慮を求めたい。
ただし、ALSへの支援状況について知識や経験を持ち合わせていないので、あくまで支援活動一般という関心と、間に合わせの造語で申し訳ないが「社会的意味論」からの考察になる。

このところの「アイスバケツチャレンジ」は、難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)への認知度を広めるために行われているそうだ。

「アイス・バケツ・チャレンジの参加者は、頭から氷水をかぶる様子をビデオ撮影してフェイスブックやインスタグラムなどのソーシャルメディアに投稿する。そして次にチャレンジを行う人を友人のなかから選び、24時間以内に氷水をかぶるか、ALSの患者団体に100ドル寄付するか選ぶよう呼びかける(氷水をかぶったうえで寄付を行う人も多い)。」

The New York Times、Emily Steel記者(訳:東洋経済) 2014年08月21日:「セレブで流行る"氷水浴び"は、誰のため? SNSで世界に拡散、単なるナルシズムとの声も」)
http://toyokeizai.net/articles/-/45879

大勢の著名人が参加したとのことで、ALSの社会的認知が向上し、寄付金も集まった。他方で、「社会貢献ごっこ」「ナルシズム」との批判もある、と紹介されている。

バークレーではまったく話題にはなっていなかったが、私の何人かの友人がFacebookなどで懐疑的な観点を提示していて、私も最近この流行を知った。
ソフトバンク孫正義が参加したとか、ビートたけしが拒否したとか、…

拒否るいは批判する側の議論として、例えば本日付の次の議論を見てみよう。
「誰かが1回、氷水を被るだけでは、誰も命も救われない」(赤木智弘、Blogos、2014年08月23日)という記事が出ている。
http://blogos.com/article/92986/

赤木の議論は、氷水による事故の懸念から、チェーンメールによる強制力への懸念、寄付の偏りや、一過的なものとなってしまうことなどへの懸念などが示されていて、私もそれぞれ同意できる面がある。
ただし、赤木は「まっとうな社会保障を担う原資は税金である」という立場のようだが、寄付についての立場にはぶれが見られる。

彼のような意見に対しては、寄付のためのイベントなんて眉つばだという気持ちは私自身経験を通じて十分分かるのだが、私としては次の3点を指摘する。

1:一般には、寄付もまっとうな社会保障となり得ると考えられていること、
2:寄付はすでに持続的な活動を支える有力な原資ともなっていること、そして、
3:「寄付金や認知を狙ったパフォーマンス」「キャンペーン」は、社会的な活動を担う団体は行うことが普通であり、公的に資金や協力、理解を集め活動を持続するアクターとしては義務でもあると考えられるということ。

「アイスバケツ」を「寄付のためのイベント」として批判する場合、もうすこしの慎重さをもって議論を構成するよう、批判的に要請したい。


今度は、参加する側の議論や行動について、支援論の観点から一定の慎重さを求めたい。

私は、一連の議論の本質は、「アイスバケツチャレンジ」のしくみのもつ、「win-winの構図」の評価にあると見る。
参加を支持する議論は、「寄付行動には責任を持たなくてよい」という私には理解不能な立場(赤ちゃんじゃないのだから、社会的行動には責任があるでしょ、とだけコメントしておく)を別にすれば、「win-winの構図」へ安易な依存が見られるように思われた。
そこが危ない、というのが、この記事の趣旨である。

win-winの構図」は、双方にメリットのある仕組み、活動、考え方のことであり、Webサービスの世界では、サービス提供者とユーザーの双方に利益のでる仕組みとして捉えられている。例えば、Googleでより多くのユーザが検索サービスを利用すれば、ユーザは無料で有効なweb情報を得ることができ、Googleはユーザの検索動向を分析してweb広告などの有料サービスで競争力を得てより収入を得ることができる。
こういった無料サービスの仕組みや考え方を説明するのに、「win-win」という言葉が使われたのはすでにすこし前の話だ。

win-winの考え方については、じつは無料サービスならずとも、一般の市場取引においても基本的には需給両サイドのwin-winで成り立つと言えるだろう。ただ、行政や市民活動の場合、一般にはこういったモデルでは説明されてこなかった。しかし近年、行政や市民活動にもこういった説明と設計のモデルは強力に導入されるようになってきた。

私は、被災地支援活動についての考察(柴田・吉田・服部・松本編著、『「思い出」…』昭和堂、2014年、http://www.showado-kyoto.jp/book/b165567.html、第2章)で力説したが、こうした昨今の動向については、「win-winの濫用」とみて、特に支援論としては慎重派(必ずしも全否定ではない)の立場である。

その理由を簡単にまとめると、ただwin-winであるだけの活動においては、支援の提供者と受容者の間に、「対等性」「相互性」が成り立っていない上に、「支援のストーリー」が共有されていないことにある。

まず、支援については一般に、「対等性」か「相互性」の両方がクリアされれば状況はかなりましになるだろうが、どちらかあるいは両方が欠けているとき、次のリスクがある。

1:活動の設定、マネジメントの力は一方的に支援者側にある。
2:受容者は支援活動を断れないし、批判できない。

この状況で本当に被支援者の必要としている有効な支援が考えられるだろうか。
私は、例えば震災直後のような緊急的な一方的支援が必要なケースを除き、長期的に人間性や個性を尊重した支援を行う場合には、win-winへの強い信頼は迷惑や搾取に陥りがちだと考えている。

私はここで新しく、「社会的意味論」の観点から、第3の理由を付け加えたい。

3:支援活動は、被支援者のストーリーをも書きかえることで、その生活、存在、活動の社会的意味に大きく影響する。これは、ストーリーや解釈をめぐる相互の協力関係なしに一方的に行われてしまうなら、人生の意味をめぐる社会的暴力となる。

類似の議論はしばしば、最近の文化人類学や福祉、社会学の領域などにも見られるのだが、行政や市民活動について考える際にも落としてはならない論点であるというが私の立場である。
この観点からは、「アイスバケツチャレンジ」に参加する人は、すくなくとも、社会活動と解釈されるその行為(やその行為を含む活動の全体)が、寄付を受ける側にとって、どのようなストーリーとなり、意味をもつのかを、自分の責任において少なくとも理解しようとし、かつ考慮すべきである。
特に、この活動が、有名人がSNSなどにアピールするとい形で、社会的意味の構成に積極的に関わるものである以上、「アイスバケツ」においてこの点には通常以上の注意が置かれるべきである。

しかし残念ながら、いくつかの動画や写真、記事などを見た限りでは、被支援者のストーリーに寄り添ったもの、配慮の行きとどいたものは少なかったように感じた。
もっとも「指名されたからやる」と説明される行為の中で、どのように配慮を示すことができるのだろうか。
「別のことを指名されたら、そっちを行っただろう」という可能性が内包されるので、その可能性と共に、「私は被支援者の立場を尊重した」と言いうるのだろうか。
「アイスバケツ」を正当化しうる別の解釈の可能性を排除はしないが、私としてはちょっと思いつかない以上、現状では、ここに人格の一貫性と倫理的責任を蝕む、深刻な矛盾を感じざるを得ない。

この運動に参加することは、この運動に対して自分の責任で評価を与えることになる。
友達に指名されたということは、いささかもその責任を軽減することはない。
従って、この運動に参加するということは、一定の社会的責任を担うということだ。

ちなみに、気楽に行動しただけでも、その行動は、少なくとも当時乗じている状況や論争に照らして、特定の立場や意見の表明と解釈されるのは当然である。
例えば、デモ行進やステッカーの表示、あるいは不服従、時には不参加といった(不)行動も、社会的行為として意味を持つ(のがその存在理由である)。
ただし、事後的に生じた事情からどこまでさかのぼってどのように責任を問えるのかは、当事者の予見可能性や社会的立場、責任を問う立場や状況などを慎重に判断して公正を保つ必要があろう。

寄付をするのは個人の自由だし(ただし社会的意味と責任は当然生じる)、ある意味では、例えば寄付すべしと判断した時に自由を行使することは市民的義務とも言えるかもしれない。
また、氷水をかぶってネットにアップすること自体も、人に迷惑をかけなければ、まったく個人の自由である。
ただ、寄付に協力するために氷水をかぶり、それをアピールするのは、当然別個の意味を持つ行為である。
この場合、「自分が氷水をかぶる→ALSについての認知が上がる・寄付が増える→望ましい(すくなくとも悪くはない)行為」というストーリー(あるいはもっと他のストーリー)について自分が何をどこまで理解しているのか、それについて寄付の受容者たちがどう受けとるだろうか、社会的・政治的にその活動はどういう意味をもつのだろうか、というところまで想像した上で、氷水をかぶらなければならない。

ボタンひとつ押すこと自体はたいしたことではないが、ある状況では深刻な意味を持つこともある、というわけだ。
ボタンを押すのはよいことだから押してと友達に言われた、しかも流行っている、しかも自分にもメリットがある、そんな考えならボタンを押すのは止めた方がよい。
そんな人間は、社会的な行為を行うには未熟すぎると言うべきだろう。
ボタンの持ついみ、影響力、強度などにもよるが、社会的な信頼を失う(べき)ことは間違いない。

孫さんはバークレー出身だが、どういう考えで「アイスバケツ」に参加することにしたのか、個人的には知りたいと思った。
というのは、バークレーではどうもこれを話題にすること自体が若干恥ずかしいような空気を感じているので、いまの私には気にはなるところである。

というわけで、心情的には私は拒否側にいる。
だが、だからこそ再度拒否側の議論の批判に戻りたい。
論理的な観点から批判することで、議論の再構成を要請しておきたいのだ。

今回の論点について、「寄付」という社会的仕組みや「社会貢献活動」自体への不信感も、その他の心情などもごたまぜのままに「アイスバケツチャレンジ」を批判している記事が目についた。
すでに上述の赤木氏の議論にもその傾向を指摘した。
こうした議論では、社会的に妥当で望ましいと考えられる寄付活動や社会貢献活動自体にも水を差してしまうだろう。

こうした議論の論理的問題点は、「アイスバケツチャレンジ」の批判から、一気に「寄付」へと論理的に飛躍していることであり、結果として議論を混乱させ、賛否双方について心情レベルで態度を硬化させるだけということになりがちなことだ。

夫婦喧嘩で、日常の些細なことから、一気に「だからいつもあなたは、、、」と一般化した議論に飛躍するのと、同じパターンである。
もっとも、夫婦喧嘩の際には、最初から一般的な不満が鬱積していて、片方、まあ多くは妻の側かな? 手ぐすねを引いて待っているところに、些細な日常が機会となって、議論の爆発が起こるのかもしれない。
だが、「アイスバケツチャレンジ」の批判者は、必ずしも「寄付」や「社会貢献」について一般的な否定を目指しているわけでもないケースが多いように感じたので、議論にはもっと気を使う必要があるだろう。
また、寄付一般、社会貢献活動一般を批判したいのなら、論理的飛躍によって、卑怯な「わら人形」に頼ることなく、堂々と本質的な問題を論じるべきである。

もっとも、私自身も、夫婦喧嘩のケースと同様に、もともと寄付や支援活動に一般的関心を持っていたので、「アイスバケツ」論争に参加したのである。
ただし、私は一般的関心と立場の方から、「アイスバケツ」論争に慎重さを求めるという逆方向の議論であり、またこっそりと議論をすり替えたつもりはない。
また、議論には飛躍もないよう注意したつもりだが。

せっかくなので、「アイスバケツチャレンジ」論争については、論理的な飛躍や混乱に満ちた泥仕合のような応酬で終わらずに、「寄付」「社会貢献」のあり方を視野に入れて、より意味のある、慎重な議論の社会的盛り上がり、というか深まりを期待したい。

2014年8月23日時点の情報に基づく(27日に若干補足・記述の修正)