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思考停止問題2

思考停止については、批判によって対処できる。

ただし、批判もまた思考停止的に生じることもある。私自身も何度も何度も、思考停止的に権力批判や資本主義批判、技術批判を繰り返してきた。それは批判と言うよりも、もはや単なる攻撃だ。それは動機がどうであれ、正義とは言えず、むしろ暴力であり不正である。

思考停止は、必要なところまで十分に思考せずに、実は根拠がないことを恐怖や劣等感、不安、虚栄、傲慢、利己心あるいは利他心、愛情、共感その他のファクターによって根拠があると思い込み、それ以上の思考を停止しかつそれで十分に思考したと思い込むとき、生じる。

不当な思考停止に陥らないことはたいへん難しいと思われる。なぜなら、思考停止したときには、思考が停止しており、その理由が思考を停止すべきかどうかの是非を判断する機構が同時に停止していることによるものだと思われるから。不正が起こり、その理由が不正をチェックすべき機関が原因だったとき、その不正を止めるのは難しいということだ。・・どうしたものかな。

批判しなければいい。あるいみラクな道だが、それは世の差別・不正にそのまま迎合し、それに荷担することになる。しかもその事実にも当然思考停止だからたちが悪い。
批判精神によって何かを批判しようと思ったときには、その都度自分を批判精神を持って批判すればよい。だがそんなことをやすやすと認めるなら、そもそも思考停止という問題を受け止めていないのと同然だろう。なぜなら、そもそも批判精神に思考停止が生じうるなら、メタ批判精神にも思考停止が起こらない理由はないだろうから。

ひとつ、有効と思われる解答を出しておこう。批判的な友人だ。批判的な友人とは、正義感を持ち、聡明で、勇気があり、義理堅く、愛情豊かで、しかも自律的で、馴れ合わず、信頼できる、etc。これは得がたいものだが。

そこで、まともな批判的ジャーナリズムや考えさせる本などが意味を持ってくるのだろう。それに人文社会系の学問は、純粋な実証研究というものが存在しないとしたら、いくばくかの批判は内包することになろう。ただ、恒常的に思考停止してしまっている人は、そんなものもとっくに遠ざけて考えないようにしてるだろう。。

批判精神を倫理の基本におくというのは確かによくわかる気がするけれど、たぶんそこからが倫理にとって本当に困難な問題ではなかろうか。