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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

学祭と「私たち」

「「私たち」と言ってしまうことで、既に合意ができてしまっているかのような錯覚に陥りがちだと思うのです。「私たち」に含まれている人の合意はできていたとしても、「私たち」に含まれるべきだった人の合意はされていないからです。」がまん神殿さん


「私たち」の議論は、現代さまざまな分野で論じられている重要な論点ですね。
今回の演習で提題してくれたがまん神殿さんが指摘しているように、この言葉はしばしば、排他性、抑圧性の効果を、意図的または非意図的に持ってしまうことが多いです。
「私たちの国、美しい日本」とか、「どういう意味?」と聞き返したくなるでしょう? もしならなくて「そうだそうだ」「感動した」と思うなら、すでにけっこう危険な思考停止に陥っていると思います。
「私たち男性は、云々」「私たち情報学部は、云々」「学生の立場から考えると、云々」こういう言葉遣いには注意が必要です。

ただ「私たち」「われわれ」という言葉は、特別な注意が必要であると同時に、使わないわけにはいかない、ガバナンスではとても重要な役割を果たす言葉だと思います。
共同意識とかソーシャル・キャピタルあってのガバナンスだからです。
「私たち」というコミットメントなしに、そもそも自治の精神を本質的エートスとして持つガバナンスがうまく機能することはないでしょう。

この意味で排他性や閉鎖性を完全に否定することはできないと思います。排他性や閉鎖性の問題とコミットメントの問題は、もうちょっと考えたいところですね。