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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

帰国報告&考えたこと Changing We

年明けの浜松に帰ってきました。
真夏から真冬へ。さすがにギャップは大きかったです。
オーストラリアは移民の国で、近年はアジアから多くの移民を受け入れているらしく、シドニーの町ではさまざまな人々が入り混じって歩いていました。
日本に戻ってくると、ひとびとが同じような顔つきで同じような行動のように見えて、最初は異様に思いました。
慣れてしまえば、これが普通なのですが、面白いものです。
すでに、どっぷり日本の日常です。

マルチカルチュラリズムについて、予備知識はあまりないのですが、現地で移民のコミュニティを見て回ったこともあり、考えました。
多様な互いの文化の相違を承認し合って社会を作ろうというのが、マルチカルチュラリズムの趣旨だと理解しています。
すべての文化を溶かし込む「メルティング・ポット」のイメージでなく、個々の文化がそれぞれの色を残したまま交じり合った「モザイク」のイメージで、把握していました。

オーストラリアでは、このような発想が取り入れられているようです。
例えば、英語のできない人のために、国のパンフレットが多言語で書かれていたり、公共の施設では通訳の準備などの配慮が見られたりします。

ただ、シドニーの社会を見てすぐに気づくのは、本当にそれぞれの文化をそのまま認めて一つの社会を作っていくのは困難だということです。
共通の言語、共通の価値、共通のルール、そういったものがないと、社会はうまく機能しないように思います。
「経済」システム、政治システム、「人権」などの倫理や法に関わる事項で、効率を考えるなら、ある程度はルールを調整して揃える必要があります。
したがって、社会で揃える必要のある基盤部分は統一して、その上にいわば趣味の領域として各文化の存在を認め合うというやり方が考えられます。
シドニーで見た社会は、ごく大雑把に言って、そういうつくりになっているように見えました。
それは、十分に理解できる戦略です。

ただ、先に「英語ができない人のために」と書きましたが、今のところオーストラリアで英語がデフォルトになるのは避けようのない事実です。
アングロサクソン系の作っていた英国風のルールを基盤として、各民族、宗教、文化がそれに適合する限りで認める。
共通項が何もないよりも、この方がよい。それはそうでしょう。

ただ、このやり方で得するのは、どうしても初期の移民である英国系のold australianということになります。
彼らがまずルールを設定し、その上で、「フェアー」に、他の文化を受け入れる。

これはフェアーなのでしょうか。疑問は感じます。
じっさい、北アメリカと場合と同じく、アボリジニたちは先住民族でありながら、そのルールやスタイルのある部分(多く)はオーストラリアでは否定されているように感じました。
多くの非英国系の移民たちの生き辛さや不安のようなものも感じられる気がしました。
英国系の人々は、いったん自分でルールを設定したら、その中では「フェアー」に紳士的に振舞う。
英国的な文脈の中でのみ、その他の文化は生き残ることができる。
そんな風にも感じました。

マルチカルチュラリズムには「共通項が必要だ」。「それは英語だ」。
こうした英国系のオーストラリアンに利する議論は、実効的に批判可能でしょうか。
もし文化としての英語がデフォルトスタンダードとして特権化されるなら、それはどこまでも排除の構造を温存するだけだと批判できるでしょう。
ただ、これに変わるビジョンをどうやって提示するべきか。それが問題です。

シドニーにはたくさんの文化が、「われわれ」意識を持って存在している。「われわれ」意識の外に「われわれ」を超越した「普遍」的視点を置いて、はじめて、多様な「われわれ」が一つの社会を構成できる。
こうした考えをを認めたうえで、英国文化は「普遍」ではない、と論じるべきか、あるいは、「われわれ」の外に「普遍」をおこうとする思考法を批判するべきでしょうか。

私は、後者の道を採るべきではないかと思いました。
「われわれ」と「われわれ」が対等に承認し合うなら、相互に自ら変化しつつ歩み寄るしかないということです。
どうして、と問われるなら、「われわれ」の外の「普遍的な視点」(だから必要)というのは、ウソなのではないかと思うからです。
「普遍的」とされた特定の文化が、他の文化のアイディンティティを引き裂くことになるだけだと思うからです。

しかし「相互に自ら変化しつつ歩み寄る」を具体化するのはなんとも難しいことのように思われます。
かもめ食堂』を思い出しながら、<Changing We>ということばが浮かんだのですが、まだ展開できそうにありません。
さしあたり、「マルチカルチュラリズム」ってのは、以前にイメージしていたほど、そう簡単に主張できる考え方ではないということが実感としてよく分かりました。