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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

【情報モラルデザイン論】資料 情報社会のゲーム化


「ゲーム化する情報社会における<私>の倫理」
吉田寛
「情報社会は「ゲーム化した社会」である。そこでは、三人称としての「私」は残るものの、一人称の<私>の場所はない。」

「ゲーム化した社会」を再考しよう。

始まりを1970年のボードリヤールの議論に置く。
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』1979 紀伊国屋書店
(Jean Baudrilard : La Societe de Consommation 1970)今村仁司塚原史

ボードリヤールが言いたいことは、生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっているということだ。 これをいいかえれば、社会のシステムはもはや余剰を生まないということである。新たな富なんてつくれないということだ。なぜなら欲望の動向は福祉の動向に吸いこまれ、商品の市場民主主義は貨幣の国際民主主義に取りこまれ、何かの均衡はどこかの不均衡のために消費されざるをえないからである。」
松岡 正剛 「千夜千冊 639夜」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0639.html

佐伯啓思、1988年『「シミュレーション社会」の神話』(日本経済新聞社)pp.6-7。
「かりにわれわれは、テレビやマスメディアの情報を通じて「現実」を理解し構成するのだとすれば、結局、われわれは、テレビが送り出す単なる記号のシステムや、あれこれのイメージによって「現実」を構成することになる。こうして、われわれは記号化された世界を「現実」と見なす以外になくなる。このリアリティを、ボードリヤールは「ハイパー・リアリティ」と呼んだ。すなわち、入れかわり立ちかわりに現れてくるイメージによって作り出された、めまぐるしく移り変わる現実、本当の意味でのリアリティを持たない“超現実”である。この「ハイパー・リアリティ」こそが、<シミュレーション社会>のリアリティなのである。従って<シミュレーション社会>とは、高度な情報社会のある1つの側面なのである。」
Ex. 「アイドル」「キャラクター」「オモシロさ」「ファッション」「ベンリ」「エコ」etc.


マルクス 「資本家が生産を介して労働者を搾取して自己増殖する」
ボードリヤール 「意味が記号の消費を介して大衆を搾取して自己増殖する」
ドゥオーキンス 「遺伝子が、生物の進化を介して自己増殖する」

市場についての知識やイメージが、市場的秩序を形成する(「自己主題化」ルーマン)=「情報化社会」という記号そのものが情報化社会を演出しはじめる」佐伯、ibid、p.223。
佐伯自身は、情報化され得ないものがあり、<シミュレーション社会>は大衆ないし多数派の作り出した神話に過ぎないと言う。素朴現実主義。
「口に出して適切な説明を与えることのできない「何かちがう」という気分、この深淵にぶち当たった時、われわれは映像の中の現実をあくまで「シミュレーション」だと断言できることになる。それは複製であって本物ではないのだ。」同、p.235。
Ex. 「伝達不可能」な「前言語的な主観」(佐伯)は、<私>(永井均『私のメタフィジックス』勁草書房、1986年)と重なる主題である。

だが、言語の「世界」には<私>は存在せず(吉田『ウィトゲンシュタインの「はしご」』)、「言語ゲーム」には外部はない。
シミュレーションにはそれと比較すべき「外部」としての実在があるかもしれないが、ゲームには外部があるのか。プレーヤー、設計者、権力、審判はどこにいるのか。

鈴木謙介『ウェブ社会の思想 <偏在する私>をどう生きるか』NHK Books、2007年
アバター」ゲーム、セカンドライフ
「バーチャルコミュニティがはじめ持っていた思想的・政治的な意義が薄れ、コミュニケーションの様式だけが残った現在でも、オンラインに表出する「わたし」は、わたしの本質であることに代わりはない。それゆえ、バーチャルなわたしは、自由にカスタマイズされ、現実のわたしではなく、「わたしという人間」を表現するものでなければならないのである。」p.71
「ポイント」経済がバーチャル・マネーとして、個人情報がバーチャル個人として流通し、ユビキタス社会とバーチャル世界が融合する。(同、p.81)
「バーチャルな領域においては、人は自分の本質を賭けた存在であるアバターを育成し、他者とコミュニケーションを行なう。そのためには、さまざまなアイテムを手に入れなければならず、それゆえ個人は、ゲームなどを通じてポイントを獲得しようとする。そこで得たポイントはゲーム内の取引にも使われるが、同時に、現実の世界においての決済手段ともなる。また、そこでの取引き履歴は個人情報として自動的に登録される。」(同、p.82)
ここで、<偏在するわたし>が問われる。
「わたしという存在の本質が、バーチャルな世界のデータとなり、それが現実のあらゆる場所に現れるようになったとき、『わたし』は『わたし』でいられるのか」